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八甲田事件の教訓(四)
茂木 武
八甲田山の雪中行軍は弘前第31連隊の徳島隊が1月20日に弘前を出発。青森
第5連隊の神田隊は3日遅れて、23日に青森を出発した。コースは青森〜田茂木野〜田代〜熊ノ択〜三本木〜宇樽部〜銀山〜切明温泉〜小国〜弘前。弘前
の徳島隊はその逆コースとなっている。神田大尉は「途中で会うのが楽しみ
です」とあの時徳島大尉に話していた。
出発前に徳島大尉は、実行計画を上官の児島大佐に説明に行った際に、八甲
田山は危険度が高いので、できることなら岩木山雪中行軍に変えたい気持ち
ですと言って、自分の考え方を上官に述べた。
「この雪中行軍が死の行軍になるか、輝かしい凱旋になるかは、この行軍に
加わる人によって決まります。雪地獄の中で一人の落伍者が出れば、これを
救うために十人の落伍者が出、十人の落伍者を助けるために、小隊は全滅す
るでしょうjと。弘前の雪中行軍隊が田茂木野に着いたのは29日の午前2時だ
った。村の外れの家の入口に「死体収容所j という札が掲げられていた。隊
員の全員がそれを見た。5連隊の雪中行軍隊がどうなったかは、ほぼ想像でき
た。その家の主人が手配してくれ、弘前の雪中行軍隊員は四軒の家に泊ま
る。熱い味噌汁と粟飯が出されたが、5連隊の行軍隊はほぼ全滅と聞かされた。徳島大尉は遭難救助隊長木宮少佐から、
ここに来る途中で何を見たか言ってくれとの問いに「何も見ていない。暴風
雪の中で前進するのがやっと、何も見ることは出来ませんでした」と終始え答えていた。
(終わり)
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歴史を回想する 八甲田事件の教訓(三)
茂木 武
吹きだまりの深雪で、先頭の雪踏み隊がつかえると、「先頭交代!」と山田少佐
の声が背後からとぶ。橇隊が遅れると「伊藤小隊は橇隊の応援につけ」と怒鳴っ
た。雪中行軍隊付きの軍医として参加していた永井軍医は、天候の急変と急激な
気温の降下があり、兵卒の小倉の軍服では寒さに耐えらない「雪中行軍は中止し
て、帰営すべきだと思います」と神田大尉こ進言した。その提案を神田隊長は納
得した。最高指揮官の隊長が良ければ「撤退」は決まりの苦である。だが、山田
少佐はこの進言に反対だった。山田少佐は各小隊長を呼んだ。吹雪の中で立った
まま進退を決する作戦会議が開かれた。このようなことを会議で決めること事態
が普通でない。会議の途中で山田少佐は、突然軍刀を抜き、吹雪に向かって
「前進!」と怒鳴った。それはまことに異様な風景である。前進という号令もお
かしいし、軍刀を抜いたあたりもこけおどしだ。青森5連隊の210名は吹雪の中へ
死の行進が始まった。小峠、大峠と越え賽の河原まで来た。橇隊の遅れが目立っ
てき来た。各小隊から応援を出したが、橇隊はなかなか本隊に追いっくことは出
来なかった。昭和40年に自衛隊第9師団が発行した「陸奥の吹雪」にもこの第5連
隊雪中行軍の遭難についての記述がある。「山田少佐は佐藤特務曹長が田代へ
の道を知っていると話したのを軽率に信用し、指揮官たる神田大尉に相談せず
『然らば案内せよ』と命じ暗夜行軍したが道を誤り、駒込川本流に迷いこみ一歩
も進むことが出来なくなった。雪中行軍のあの悲惨事は実に、山田少佐が軽率に
も指揮官である神田大尉に相談せず命令を発したのが原因である」。指揮官たる者は肝に銘ずるべきことだ。
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歴史を回想する 八甲田事件の教訓(二)
茂木 武
八甲田山の事件は明治35年1月に起きた。雲行き怪しい日露開戦の前夜
である。青森隊の神田大尉と弘前隊の徳島大尉は、この八甲田の雪中山行
について、事前に話し合いを持っていた。徳島大尉の言い分。「雪山で地図
は使えない。軍の装備では雪中露営は困難。死を意味する。人間は寒さに勝
てない。履物は地元民の履く雪沓(ゆきわ)が良い。隊編成は少数にする。
中隊では駄目だ」等を神田大尉に語った。
青森第5連隊は、神田隊長指揮のもと中隊編成の規模となった。下士卒
194、曹長4、見習士官2、将校9、軍医1、総員210名であった。この中に
は大隊長の山田少佐が入っていた。神田大尉が最高指揮官であるのに、神田
の上官の存在が青森隊の運命を、大きく変えてしまったのである。「上官の命は、
朕が命と思え」神田隊長はリーダーとしての、指揮権を奪われてしまったも同然
であった。
神田隊は23日に青森を出発。辛畑、田茂木野と進む。積雪は1,5米に達した。
田茂木野で山田少佐は、民間の案内人が案内を申し出たのを断っている。田茂
木野から先は踏跡は無くなっていた。「出発用意!」背後から山田少佐の声が掛
かった。この声を聞いて、一瞬辻褄が合わないのを皆が感じていた。
神田隊は特異な編成であった。先ず先頭に40名のカンジキ隊が進み、雪を踏
み固める。後続部隊は雪に悩まされず楽だった。最後に行李輸送隊の橇が
14台が続く。1台に4名ずつの兵が従った。輸送隊は遅れ勝ちになっていた。
小峠が近づくにつれ風速が加速度的に増大した。周囲が吹雪の様相となっていた。
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丹沢大山の日向薬師大祭
丹沢大山の日向薬師大祭4月15日(火)
今では珍しい山伏たちの修験道修行が
執り行われました。
高い神木へ登り祝詞を朗読。護摩を焚き上げ
後に全員で火渡り。参加者へ紅白の餅が
振舞われました。

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歴史を回想する 八甲田事件の教訓(一)
茂木 武
私は最近テレビで「映画、八甲田山」を見た。これは古い映画の再放送だった
が、再び感銘をうけ、今日的な意味で考えさせられるものがあると思った。
青森第5連隊が雪中の八甲田山で遭難、殆ど全員が凍死した事件が起きた。しか
しこの事件の真相は、長く国民には封印されたまま、日本の戦後に到っている。
新田次郎氏が「八甲田山死の彷捏」を世に出したのは昭和46年だった。新田氏
は気象学の専門家。自身も気象庁の技官を勤め、登山家でもあり、作家でもあっ
た。この事件に大きく影響したのは、当時、旭川で零下41度という、日本での気
温の最低記録を生んだ、異常な寒冷現象にあることは間違いない。
この八甲田の事件では遭難した青森第5連隊の外に、弘前第31連隊も雪中行
軍に参加し、青森隊と逆のコースを20日に出発している。弘前隊は徳島大尉を
隊長に少数精鋭を考えた。徳島隊は要所に民間の案内人を立てた。案内人には
交代時に当時の金で50銭を一人宛払っている。
徳島隊は弘前を出発して、十和田湖南岸を半周し、三本木から西北進し田茂
木野に向かう。記録破りの異常な寒冷現象、吹雪の中の雪中行軍は、生易しい
ものではなかったが、全員無事で最終コースに向かった。隊員たちは雪中で次
々に死体を発見した。青森隊に何が起こっていたかを、初めて知った。徳島大
尉は雪山の怖さを十分知っており、隊編成は少数精鋭主義。隊長外、中尉、少
尉が各1、見習士官了、見習医官2、曹長1°、伍長20、兵卒4、記者1、総員38名
であった。
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「愛読欄は何?」
春日井 孝明
皆さんは『新ハイキング』を毎月手にされて、主にどの欄を読まれますか。
特に興味の目が向くのはどの欄ですか?また、どこから見始められますか?
私の予想としては、興味の面で言えば、やはり紀行、ガイド欄を、今後の山行の
参考にと読まれる方が最も多いんでしょうね。
一方、どこからということでは、私がそうなんですが、先ずは表紙の写真、
それから口絵写真をパラパラと見ていきますが、多分皆さんもそうでは
ないでしょうか。
私は以前、毎月随想欄に投稿していました、採用・掲載は半年に1回に
しろ、毎月投稿し続けていました。その頃はイの一番で随想欄を見ていま
したがねえ。
現在は、毎月せせらぎ欄だけへ投稿しています。せせらぎ欄は割りと真
面目に読みます。誰だったか、せせらぎが一番面白いと言ってた人がいま
した。山行報告欄って見られますか?
(単に参加者名の羅列に過ぎないと思って、ずっと、ここは一切見ませ
んでした。が、ある時ある人から「誰それさんは本部山行によく行ってる
のよ、山行報告欄に名前よく出てますよ」と言われてから、私も結構楽し
みに眺めるようになりました)
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トチの身
有山 好子
支部山行で尾瀬に行ってきました。渋沢温泉小屋から渋沢大滝へ
行く途中、トチの実が澤山落ちていました。
珍しいので、殻付きと殻から飛び出した実とを数個拾ってきました。
小学校6年生の孫娘に見せましたところ、栗と間違い、始めて見る
トチの実に目を輝かせました。
先生と友達に見せたくて、学校に持って行きました。先生も友達も
始めて見たトチの実を珍しがり、よい教材になったと、
先生に喜ばれました。
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県立四季の森公園のホタルとアライグマ
県立四季の森公園のホタル鑑賞の集いでは、最大400匹は見られたそうです。今年は好調でしたが、昨年は2回参加しましたが数が少なくさっぱりでした。
ところで・・・JR中山駅から徒歩15分の同公園でアライグマが4匹も捕獲されました。捕獲した人と直接お話もでき、2匹一緒に写っている写真も確認いたしました。5月23日に1匹と27日に3匹で計4匹です。朝、公園の遊歩道際の椿の木の枝、高さ1m位の同じ場所です。すぐ逃げず、写真撮影も成功したので、恐らく生後1ヶ月位でしょうか。最初は着ていたジャンパーを被せて簡単に捕獲したとのことです。威嚇も噛み付きもせずにおとなしかったそうです。
1年で親になり、年2回位の周期で5、6頭は出産すると伝えられます。私も、三浦でアライグマの調査へ参加、アドバイスもしてます。姿を見るより、干潟や川筋での足跡を確認しています。成獣になると体を震わして威嚇しすごく怖いです。農家では、スイカの食害がひどいので、カボチャへ生産を替えた農地が目立ちます。
昨年度県内では、アライグマの捕獲数約1000匹と伝えられています。
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山岳遭難、過去最悪=昨年、中高年が8割−「装備、計画は入念に」
昨年1年間の山岳遭難は、前年比35件増の1417件で、遭難者は169件増の1853人、うち死者・行方不明者が5人増の278人だったことが29日、警察庁のまとめで分かった。いずれも統計を取り始めた1961年以降、最悪となった。
遭難者の8割、死者・行方不明者の9割を40歳以上の中高年が占めており、同庁は登山シーズンに向け「ルートの確認や装備などの準備を万全にして、登山の際はルートから離れず、天候が悪化したらは早めに引き揚げるなどしてほしい」としている。
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吸血ヒルに官・学で対抗
丹沢周辺で吸血生物・ヤマビルの被害が増えていることを受け、県は対策に乗り出す。大学や研究機関と共同で2年間かけ、生息状況や殺虫剤の効力を調べる。
ヤマビルは山の奥地に生息し、シカやタヌキから血を吸うが、近年、登山者や農家が被害に遭うケースが増えている。シカなどがえさを求めて里山や住宅地に下りてきて、ヤマビルを人の生活圏に運んでいるとみられる。
しゃくとり虫のように動いて首や腕などの素肌に吸い付き、すぐには痛みを感じないが、血が止まらなくなる。かゆみや腫れが出たり、体質によっては熱が出ることもある。
県政策課によると、厚木、伊勢原、秦野、相模原の各市と愛川町、清川村で被害が報告されている。茶畑が多い清川村は、ヤマビルの活動期に茶摘を迎えるため、村産業観光課によると、2005年5月〜9月で35件の被害報告があった。
県の研究には、横浜国立大学や民間のヤマビル研究会が参加。分布状況や殺虫剤を大量分布した場合に環境に及ぼす影響を検証する。研究結果は県民に提供して、被害防止に役立てる。
※ ヤマビル
ミミズの仲間で、体長1.5〜5センチ。赤褐色で、背中に3本の黒い縦線
がある。5月から10月ごろの暖かい時期に活動する。
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